通訳者についての記憶


投稿者:Site Admin | 2021/04/28
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私の心の中にまだ刻印されている私の子供時代の思い出の一つは、1990年代初頭に起こりました。私が小学校の新1年生になったとき、私はクリスマスイブに母によってサイゴンフローティングホテルに連れられました。その日の雨の後の涼しいサイゴンの空気、きらめくライトが輝くホテルの窓、ビスケットと砂糖で完全に作られた小さな城を含むガラス箱があるロビーが今までも私の記憶に残っています。

まだ非常に貧しかったドイモイ(刷新)時期に入ったばかりのベトナムで育っている子供の目には、そのイメージは印象的でした。母が日本人のビジネスマンと夕食を食べながら話しているのを見て、さらに特別でした。日本人はとてもフレンドリーでした。彼らは私の家族に安否を温かく尋ねたり、私がベトナムで前に見たことがないパターンがあるラッピングペーパーできれいに包装した菓子の小さなプレゼントをしたりしました。

後になって初めて、私の母がそんなに印象的なことをしていないことを知りました。彼女は、ベトナム南部でビジネスチャンスを探している日本企業の通訳者でした。当時、そして今日のような強力な企業団体とトヨタやイオンなどの多国籍企業はまだありませんでした。ベトナムは米国の禁輸措置を受けており、日本企業も我が国でのビジネスに非常に保守的でした。少数の商社だけが駐在員事務所を設立し、将来のプロジェクトの基盤を築きました。日本のビジネスマンはベトナムに直接飛ぶことさえできませんでしたので、バンコクでトランジットをしなければなりませんでした。

1990年、日越通訳の1日あたりのレートは約25米ドルでした。屋台のバン・カン(ベトナムの麺料理)の一杯が500ドンしかかからなかった時に、1米ドルに7,500ドンの為替レートでその金額がどのぐらい大きいか想像できます。

しかし、私の家族にとって貴重なのは現金だけではありませんでした。母は専門知識を持ち、国有企業と日本に同行して研修や貿易関係を学びました。そのおかげで、私の家族はJVCのカラーテレビ、任天堂のコンソール、そして私の同い年の多くが夢にも思わなかった多くの貴重なアイテムを買えました。

Mid '80s JVC TV/monitor | Audiokarma Home Audio Stereo Discussion Forums

実際、ここで「買う」という言葉は少し誇張されすぎます。日本での出張中、母のグループは集合住宅の隣にある研修センターに滞在するように手配されました。近くには電子廃棄物収集場所がありました。代表団の何人かはエンジニアでした。代表団の全員はホテルにいくつかの機器を持ち帰って、稼働確認して、まだ使えるものを残すのをお互いに話し合いました。その後、日本のパートナーに、海路でベトナムへ送ってもらいました。当時の母が持ち帰った製品は私が中学校を卒業する頃には、まだうまく稼働していたぐらいとても良かったです。

収入や製品のほかに、母は日本人ビジネスマンからも贈り物を受け取りました。多くの場合、彼らは私たちに菓子、衣類、アルコール、特にタバコをプレゼントしました。ベトナムでは555のタバコがとても貴重だと知り、日本人のクライアントが母に持ち込むことが多いでした。時々、彼らはタバコのパックを終え、私たちにいくつかの部分を残しました。当時、555のタバコを1本でも高い価格で市場で販売することができました。

私にとって最も貴重な贈り物は、高級ホテルでのディナーパーティーです。最近では、通訳者が家族を顧客と一緒に夕食に連れて行くのを見ることはありません。しかし、当時は、通訳に関する規則が標準化されていないこともあって、母と日本のビジネスマンとの良好な関係があって、私は頻繁に食事に出かけました。そこで、カトラリーの使い方をちゃんと習いました。私たちはとても仲がよかったので、何十年後に出会い、母に「あなたの子供はまだピアノを弾いていますか」と尋ねた日本人の叔父さんのためにピアノを弾いていました。

時間はすぐに過ぎました。その後、コンチネンタル、マジェスティック、カラヴェル、エクアトリアルとニューワールドなどのサイゴンの5つ星ホテルは改築または再建されました。必然的な結果として、かつて有名なフローティングホテルは、1997年にサイゴンを去るためにアンカーを引き上げました。1年後、私は通訳の仕事から母が稼いだお金のおかげで、ベトナムを離れて留学しました。

15年以上経った今、母のアドバイスを受けてベトナムに戻りました。何らかの理由で、運命は私を通訳の仕事に導きました!私自身の努力によって、私の通訳スキルは徐々に向上していきました。3年後、私はすべての新しい通訳者が目指す目標である同時通訳を始めました。そして、第四次産業革命はUberGrabなどの共有経済のアプリケーションの開発と共に進展しているとき、私と私の同僚は、通訳者とクライアントをつなぐベトナムと世界の最初のプラットフォームであるfreelensia.comのウェブサイトを作成しました。

母の時代に比べて、通訳業界は大きく変わりました。当時の25米ドルのレートは、コロナウイルス感染拡大の前に1日あたり200米ドルに増加しました。しかし、コロナ渦はベトナムの通訳コミュニティの生活に深刻な影響を与えています。私たちの調査によると、通訳者の80%以上はコロナ渦が総収入を減らしたと、15%は何も変わっていないと回答しました。収入が上がったのは5%に過ぎませんが、この余分な収入は、通訳が空き時間に学ぶ必要がある他の仕事(株式市場での取引など)から来ていると思います。

一方、人工知能、ビッグデータ、翻訳・通訳ツールの成長は、通訳者の役割を減らしています。調査を通じて、ベトナムに来て市場を探索する中国企業は、ほとんど携帯電話で翻訳ソフトウェアしか使っていないことがわかりました。実際に通訳サービスを使っているのは日本や韓国の企業だけですが、競争圧力が高まり、コスト削減が迫られ、その多くは英語のビジネスに切り替えています

公平に言えば、コロナ渦と技術の進歩は、通訳や翻訳業界にチャレンジだけでなく、機会ももたらしています。リモート会議の普及にともなって、リモート通訳も波に乗ります。この傾向は、大きな見込み顧客基盤と通訳者の公平な場を作成します。低い生活費の利点を活かし、ベトナムの良い通訳者は世界中の仲間と真正面から競争することができます。実際、Freelensia(フリレンシア)プラットフォームは、このようなクロスカントリー、クロスタイムゾーン通訳イベントの急増も目撃しています。

週末は忙しい仕事を一時的に脇に置いて、母と一緒に古い思い出を思い出すことが多いです。彼女は年取ったので、日本語の知識を多少忘れてしまいました。時々、私たちは過去のクライアントからはがきや尋ねるメールを受け取ります。ベトナムに何十年も行っていない人がいます。癌や脳卒中で他界した人もいて、はがきやメールなどを書いたのは親戚です。時々、私は彼らのビジネスマンに再会し、お礼を言い、ベトナムが長年にわたってどのように成長してきたかという話をし、将来の私の計画についても伝えたいと思います。ベトナムと日本の生活は続き、私は通訳が世界経済において新しい、非常に異なるが、同様に重要な役割を持つと強く信じています。

 

-Peter Nguyễn

通訳者、フリレンシアの共同創立者